2020年大河ドラマ『麒麟がくる』主人公の明智光秀|新説!?これまでの常識とは違う『光秀像』を比較考察

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2020年大河ドラマ『麒麟がくる』で明智光秀が主人公として描かれた物語となっています。

日本史の教科書では信長を討ち倒した男として有名ですね。しかしその生涯の全てを知る人は少ないと思います。

この度は放送直前ということもあり、明智光秀について一般常識的なことから『実はこうだった』という事柄まで比較考察した内容をお届けします。

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明智光秀についての概要

明智光秀は当時美濃(現在の岐阜県)土岐氏支流である明智氏に生まれました。

生まれた正確な日時は参考資料が乏しいので断定できておりません。

織田家に仕える前の明智光秀の若いころについてあまり知らない方がいるかと思います。

光秀は斎藤道山と息子義龍との覇権争いに巻き込まれ、当時道三方で付いていたため義龍に明智城を攻められ、半強制的に一族離散を余儀なくされました。

その過程で越前に流れ着き、細川藤孝(細川幽斎)と出会ったことで後の将軍となる足利義昭に仕えることとなります。

ただ、義昭は三好三人衆や松永一派によって命の危機に直面しており、織田信長を頼ったことで光秀は信長と初対面を果たします。

光秀は信長に対して時には奇策と言うべき進言を行い従来の織田家家臣から始めこそは疑心暗鬼の目で見られていたものの、信長は光秀を信じたのです。

結果的に光秀が献上した策は100あるうち9割ほどが信長に貢献する働きを見せつけたかっこうとなりました。

こうして信長に認められ大きな功績を残し、織田家重臣の仲間入りを果たすのです。

一般的に明智光秀と言えば、天下統一目前の織田信長を本能寺で急襲し、自ら命を絶たざるを得ない状況に追い込んだ非道な人物としてのイメージを歴史の教科書で紹介されていますね。

そして天下人になるものの、羽柴秀吉の中国大返しによって基盤が固まらないまま戦となり山崎の合戦で敗れ、落武者狩りに遭って亡くなったとされているのです。

ずる賢いことをしたから自業自得だという方もいるかと思いますが、歴史の教科書が先入観を入れて紹介していたのなら詮無き事だと思います。

新説!?明智光秀の真実について

明智光秀はハゲのキンカン頭で悪人としてのイメージが強いと思われがちですが、実は文武両道に優れており、和歌もたしなむほどの教養人なのです。

これは光秀を下して天下人になった豊臣秀吉のイメージ操作がそうさせたのです。まるで真実隠しみたいと言わざるを得ません。

定説では明智光秀は55歳で没とありますが、これは江戸時代に作成された『明智軍紀』に基づいて広まったものとされています。

新説では明智光秀と親交があったある徳川家武将の日記より本能寺の変で没となった年齢が67歳との記述が見つかったのです。

これが真実なら織田信長より18歳年上という一回り違うことになります。

実を言うと光秀は相当の苦労人、つまり織田家に仕えるうえで叩き上げのスキルを持って策を献上し成果につながりそれを信長に認められたことでその苦労が報われるわけです。

また光秀の戦は多大な戦力を持って敵に攻めかかるものではなく、孫子の兵法を持って「戦わずして勝つのが最善」ということをモットーにしています。

敵が籠城していて無理に攻め込んでも多数の死傷者が出ることを把握しているので、長期戦になっても敵を包囲し水や食料を与えないように水路や補給路を寸断して、飢餓状態に追い込んで最終的には敵を降伏させるやりかたを取っています。

こうしてみると、無益な殺生は好まない人物像が浮かび上がってきます。

ただ時には無情にもなり、あの織田信長に比叡山延暦寺焼き討ちを最初に進言したのが光秀だとされており、敵が歴史ある寺を隠れ蓑にしていることに対して『聖域は存在しない』ことを知らしめたかっこうです。

これはつまり織田信長という人物に汚名を着せる進言であることに変わりなく、信長は最終的にこれを受け入れて策を実行したと考えられます。

主君に忠誠を尽くすという意味では秀吉以上と言わざるを得ませんね。

考察:『本能寺の変』を引き起こした動機は怨恨ではなかった!?

あくまでここでは1つの仮説を考察したものに過ぎません。

光秀が信長を本能寺の変で打つことになった動機として、『考え方の差異』がありました。

光秀が信長と一緒に天下泰平を目指す目的は『争いのない世界を創造』するためです。

ただ信長は光秀の考え方の先をいっており、争いのない世界は戯言に過ぎず、武士の血が争いを避けられないモノとしていることを理解し、天下統一して日本を治めた後に今度は中国の明へ侵攻しようと考えていたのです。

仮定の話ですが、日本国の統治を息子で嫡男の信忠に任せ、自身は選りすぐりのメンバーと共に朝鮮や明へ侵攻し更なる境地を目指していたことでしょう。

このことから光秀が反逆者の汚名を着せられても信長を止めたかった理由は、「これ以上の無用な争いを作ってほしくない」という想いからだったと思います。

そう考えると従来の説にある、信長から冷遇措置を受け続けたことのよる怨恨説は否定できるはずです。

まとめ

明智光秀は美濃で生まれ、いろんな国を放浪し最終的に織田信長に仕えた重臣です。

何かしらの理由があって主君である信長を討つに至りました。 大河ドラマでは光秀をどのように描写するのか楽しみなところです。

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